福岡高等裁判所 平成11年(う)418号 判決 2000年5月09日
主文
原判決を破棄する。
被告人を懲役五月に処する。
この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予し、右猶予の期間中被告人を保護観察に付する。
理由
本件控訴の趣意は、弁護人飯尾昭憲提出の控訴趣意書に、これに対する答弁は、検察官安田博延提出の答弁補充書に各記載されているとおりであるから、これらを引用する。
そこで、原審記録を調査し、当審における事実取調べの結果をも併せて検討する。
一 事実誤認の論旨(控訴趣意一)について
1 論旨は、要するに、原判決は、被告人が被害者である甲山太郎及び乙川花子に対しそれぞれ全治約三か月間を要する心的外傷後ストレス症候群の各傷害を負わせたと認定しているが、被害者らが右傷害を負ったと認めるに足りる証拠はなく、暴行罪が成立するにすぎないから、原判決には判決に影響を及ぼすことの明らかな事実の誤認がある、というのである。
2 原判決挙示の関係各証拠によれば、次の各事実ないし事情が認められる。
(一) 被告人は、原判示犯行当日の昼前ころから、熊本市内の交通センター地下のレストランで焼酌約二合を飲酒して、帰宅するためバスに乗ったが、いらいらした気分になっていたことから、運転の仕方についてバス運転手に文句を付けたが、言い返されたりしたことから一層いらいらした気持ちになっていた。
(二) 被告人は、降車後、スーパーマーケットで買い物をし、玉ねぎ等が入った買い物袋を手に下げて徒歩で自宅に向かう途中、原判示日時に、原判示の場所付近で、小学生の甲山太郎(当時一〇歳)とすれ違った際に、同人をのぞき込むようにしたところ、そのようにされた太郎が不快な表情や態度を示したことに不快感を募らせ、いきなり太郎の頭髪をつかんで地面に引き倒し、その顔を草履様のもので踏みつけ、さらに立ち上がった太郎の顔や腹部を数回手拳や買い物袋で殴ったり、腹部を足で蹴ったりした。
(三) 近くでこの様子を見ていた太郎の兄の甲山次郎は、自宅と同じ棟の二階の乙川方に駆け込み、乙川花子(当時三四歳)に太郎が髪の毛を引っ張られたり打たれたりしている旨知らせ、これを聞いた乙川は、太郎を助けるため急いで犯行現場に駆けつけ、ブロック塀に押し付けられていた太郎と被告人の間に止めに入ったところ、これに立腹した被告人は、乙川に対して、手に持った買い物袋で乙川の後頭部を一回殴打したり、手拳でその後頭部を一回殴打した。
(四) 被告人の右暴行により太郎に生じた具体的な症状は、同人及び実父の供述によれば、本件直後は腹部の痛みと頭痛がしたほか、放心状態になったため三日くらい学校を休ませ、一か月くらいは一人で外出できなくなり、寝付きが悪くなったり、食事の欲求が少なかったりし、感情表現が少なくなって嬉しいことや悲しいことがあってもほとんど態度に出すことがなくなり、それは本件から約八か月経過した後も続いており、また、被害の三日ぐらい後に微熱が出て二、三日下がらなかったことがあったというのである。
(五) 乙川の具体的症状については、同人の供述によれば、頭部に受けた外傷自体は間もなく治ったが頭痛が一か月位続き、いきなり男から理由もなく暴力を受けたことで精神的にひどいショックを受け、二、三週間は満足に夜寝ることもできなかったし外出も一人でできなくなり、買い物等も子供に頼んだり、太郎の母親と一緒に行ったり、食事を出前で済ますなどした、電話が鳴っただけで心臓がどきどきしたり、戸外の足音がしただけで、ビクッとしたりすることが三か月くらい続いたというのである。
(六) なお、太郎及び乙川は、本件の翌日にA病院で打撲による頭痛等の治療を受けた後、熊本北警察署に被害届を提出しているが、A病院作成の診断書は提出されていない。
3 右事実等に基づき、被告人の右暴行により太郎及び乙川が被った被害症状の程度について検討する。
本件事件の四日後に診察した医療法人B病院勤務の精神科医師丙野一男は、太郎及び乙川の各症状は心的外傷後ストレス症候群であり、全治約三か月間の見込みと診断し、心的外傷後ストレス症候群の症状としては、受けた体験に恐怖を感じて繰り返しその状況等を想起し、それがため睡眠不足に陥るとともに外出、他人との接触等を回避し、社会的生活における機能障害を引き起こすというのが主な内容であると説明しており、同医師は、精神疾患の診断・統計マニュアル第四版(DSM―Ⅳ、米国精神医学会によるもの)に基づいて説明している。
しかし、当審における事実取調べの結果を含む本件全証拠をつぶさに検討しても、丙野医師の診断は右の一回限りであり、太郎に対しては投薬もされておらず、乙川花子についてはその際精神安定剤及び睡眠導入剤の投薬がされているが一回にとどまり、右両名に対し、右症状を軽減させるためのカウンセリングなどを含む治療措置を施したり、その後の経過観察等のための通院措置を採ったという事実は認められず、また、いずれの被害者も再度診察や治療を求めるということもなく経過していることなどにかんがみると、太郎や乙川の症状自体が治療を必要とするほど深刻な状態にあったものとは認め難いというべきである。本件被害者らの前記症状は、本人やその家族の訴えによるもので、主観的な判断が混入するおそれがあり、誇張等も入り込みやすく、被害感情の程度によっても表現に違いが生ずる可能性があり、特に症状の程度についての主観的判断が入り込みやすいものであるから、その程度、継続期間などについては、当初の診断のほか専門的な診断を欠いている本件では、慎重に考慮せざるを得ない。また、当審における事実取調べの結果によれば、丙野医師が診断に当たって依拠したDSM―Ⅳによれば、心的外傷後ストレス症候群(PTSD)の診断基準は相当厳しいものであることが認められ、その診断に当たっては慎重に検討する必要がある。
このような見地から見ると、被害者である太郎や乙川らの訴える症状の程度いかんについては、証拠上客観性に乏しい面があるなど正確なところを把握し難いことからすると、心的外傷後ストレス症候群の前記診断基準に合致しているといえるかどうかについては少なくとも疑問があるというべきである。すなわち、まず、被害者らに加えられた被告人の暴行行為の程度をみるに、太郎に対しては頭部や腹部を殴打したり顔を踏みつけたりしているが、太郎は翌日に頭痛の治療を受けたことがうかがわれるものの頭部や腹部等に治療を必要とするような外傷を負った事実を認め難いことに照らすと、被告人の太郎に対する暴行の程度はそれほど強いものであったとは認め難い。また、止めに入った乙川についても、前記のとおり、被告人は、その後頭部を玉ねぎ等が入った買い物袋で一度殴打し、手拳でも一度殴打しているが、乙川自身殴られた衝撃は大したことはなかった旨供述しており、被告人の乙川に対する暴行の強さには自ずと限度があって、生死の危険や重大な身体的障害にさらされるような激しい暴行が加えられたとまでは認めがたいというべきであり、したがって、被告人の暴行が心的外傷後ストレス症候群の原因となるような出来事に該当するかどうかの点において既に疑問があるものというべきである。次に、被害者らの前記症状の継続期間や強さの点についてみるに、この点は前記のとおり主観的な内容が入り込みやすいことや、本件の四日後に精神科医の診察を受けたのみで、その後は専門医の診察を全く受けていないことにかんがみると、DSM―Ⅳによれば心的外傷後ストレス症候群としての診断に必要とされるような、症状が一か月以上継続することを要するとする要件や症状の強さの要件を充たしているものかどうかの点においても疑問があるといわざるを得ない。確かに、太郎や乙川は、突然見知らぬ大人の男性から理不尽な行為を加えられたことから、恐怖感を抱いたことは推察に難くないが、これにより被ったストレスの程度は特別強いものとはいい難く、現実にいずれの被害者も、改めて治療を求めに病院を訪れた形跡がなく、そのまま経過していることに照らすと、その心理的な症状の強さは、治療を必要とするほどのものではなく、いまだそれほど強いものとはいえない程度の心理的なストレス状態にとどまる疑いを生じさせるものである。そうすると、太郎や乙川の前記症状が検察官のいう心的外傷後ストレス症候群に該当することについては少なくとも疑問があるというべきである。
4 また、傷害罪における傷害とは、一般に人の身体の生理的機能に障害を与えること、ないしは人の健康状態を不良に変更することを指すと解するのを相当とするところ、人の精神的機能に障害を与える場合も右にいう人の生理的機能に障害を与える場合に含まれ、傷害罪にいう傷害に該当するというべきであるが、本件については、治療措置といえるほどのものは採られておらず、経過観察の措置も採られていない上、症状の程度を明確にするに足りる証拠にも乏しいことを考慮すると、傷害罪の傷害に当たるといえるかどうかについても全く疑問の余地がないとはいえない(なお、DSM―Ⅳの診断基準に掲げられている精神障害に該当しないからといって、それだけで刑法上の傷害に当たらないとはいえないと解される。)。のみならず、このような心理的ストレス状態は、有形力の行使や細菌感染などの物理的、化学的原因、過程により直接生じたものではなく、犯罪の被害を受けたことによる恐怖等を伴う体験を、被害者自身が想起し直すという心理的原因、過程によりいわば、間接的、派生的、二次的に生じたものであり、有形力の行使(暴行)等から直接生じた被害とは異なるという点において、暴行の被害を受けた場合に限られるものではなく、恐怖という体験を伴う種々の犯罪の被害者となった者が共通してしばしば被る症状であることに留意すべきところ、深夜窃盗に入られ犯人の姿を見て恐怖を感じた場合にも、強盗や強姦等の恐怖を伴う被害に遭った場合にも、殺してやると脅迫され恐怖を抱いた場合にも、人それぞれに精神的ショックを被り、その恐怖や衝撃的な場面を思い返すことによって心理的なストレスが増幅され、ある程度の期間にわたって不安定な状態が続くということはよくあることであって、このような恐怖等を伴う多くの犯罪の被害者が程度の差はあれそれなりの心理的なストレス状態を生ずることは、むしろ通例というべきであろう(だからこそ、このような心理的ストレスを生じることが予想される犯罪については、それ相応の刑罰を科しているとすらいえるであろう。)。確かに、例えば、直接的、積極的に被害者を心理的なストレス状態やノイローゼ状態に陥らせることを意図し、脅迫や恐怖体験を与える行為を繰り返すなどして、殊更に被害者にそのような症状を生じさせた場合は、それが比較的軽度のものでも、それが身体の生理的機能の障害に該当し傷害罪を構成する場合があることは明らかであるし、他方、致傷罪の定めのある場合でも、恐怖感を伴う体験や精神的ショックを受けた者が、その状況を思い返すことにより例えばノイローゼ状態になるような相当程度の精神的障害を呈するような場合においては、致傷罪を構成することになるのも見やすいところであるが、本件のように、ある程度のストレス状態になること、すなわち、憤りや強い被害感情、恐怖心等から、興奮しやすい状態、不眠状態、心理的に不安定な状態になるといった程度にとどまりあるいはそれにとどまる疑いが残る場合には、仮にそれが厳密には傷害の概念それ自体に当てはまる程度のものといえる場合においても、それはそれぞれの犯罪の本来の構成要件自体にそのような結果がある程度予想されていて、それがいわばその中に織り込み済みになっていると解する余地があり、致傷罪の定めのない窃盗、脅迫罪等の場合にそれが情状として量刑上考慮されるのは当然であるが、これと同様に、致傷罪の定めのある罪の場合や暴行罪(傷害罪には暴行致傷としての傷害が含まれる。)の場合にも、心理的なストレス状態については、その程度に照らして、致傷罪を構成せず、したがって、暴行罪の場合にも、同様にその情状として量刑上考慮するのを相当とする場合があると考えられる。殊に、致傷罪の設けられている強盗、強姦、強制わいせつ等の被害者の場合には、被害を受けたことにより多かれ少なかれ心理的ストレス状態を生ずるのがむしろ通常といえるのであって、これを生じない場合の方が稀であるといえる以上、通常予想されるようなストレス状態をすべて致傷に当たるとすれば、これらの罪のほとんどないしはかなりの場合がその致傷罪を構成することになり、これを構成しない場合がむしろ稀になるということにもなりかねないと思われるが、そのような結果になることは、我が国の刑法の体系が予想しているところとは必ずしも思われないことからして、相当でないと考えられる。
本件では、被告人が被害者である太郎や乙川を心理的ストレス状態に陥れることを特に意図して執ように暴行行為に及んだものでないことは明らかであるし、また、その症状も種々の犯罪の被害者の被る心理的ストレス等の被害を特に上回るものとまではいまだ認め難いというべきであって、いわゆる犯罪の被害者としての恐怖による二次的かつ一般的なストレス状態を超えたものとはにわかに認め難いことからすると、これをもって、有形力の行使である暴行の結果的加重犯としての傷害罪の成立を認めるのは相当でないというべきである(なお、被告人には、傷害の未必的故意があったともいえなくもないが、右のような事情にかんがみると、錯誤による傷害罪が成立すると解することも相当でないというべきである。)。結局、被告人には、太郎及び乙川に対する各暴行罪が成立するにすぎないというべきである。
5 以上によれば、太郎や乙川の本件各症状をもって全治約三か月間を要する心的外傷後ストレス症候群と認定し、それぞれに傷害罪の成立を認めた原判決には、判決に影響を及ぼすことの明らかな事実の誤認があるというべきであるから、その余の控訴趣意(量刑不当)につき判断するまでもなく、原判決は破棄を免れない。論旨は理由がある。
二 破棄自判
よって、刑事訴訟法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄し、同法四〇〇条ただし書きを適用して当審において更に次のとおり判決する。
(罪となるべき事実)
被告人は、飲酒し、いらいらした心理状態にあったことから、
第一 平成一〇年一一月五日午後一時ころ、熊本市楠<番地略>付近の路上において、通りかかった甲山太郎(当時一〇歳)の表情や態度が気に入らないとして、同人に対し、その頭髪をつかんで引っ張り、同人を路上に引き倒した上、その頭部を草履様のものを履いた足の裏で踏みつけたり、その腹部、頭部を手拳で数回殴りつけるなどの暴行を加え、
第二 同日午後一時五分ころ、前記路上において、これを制止しようとした乙川花子(当時三四歳)に対し、その頭部を携帯していた玉ねぎ等の入った買い物袋や手拳で殴りつけるなどの暴行を加えた。
(証拠の標目)
原判決挙示のとおりであるから、これを引用する。
(法令の適用)
被告人の判示各行為は、いずれも刑法二〇八条に該当するので、その所定刑中いずれも懲役刑を選択し、以上は、同法四五条前段の併合罪であるから、同法四七条本文、一〇条により、犯情の重い判示第一の罪に法定の加重をした刑期の範囲内で被告人を懲役五月に処し、情状により同法二五条一項を適用してこの裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予し、同法二五条の二第一項前段により右猶予の期間中被告人を保護観察に付することとし、原審及び当審における訴訟費用については、刑事訴訟法一八一条一項ただし書を適用して被告人に負担させないこととする。
(量刑の理由)
本件は、前記のとおり、被告人が、自己のうっ憤を晴らすため、たまたま通りかかった何の落ち度もない一〇歳の小学生に対し、いきなり判示のとおりの一方的かつ執ような暴行を加え、さらに、これを止めようとした主婦に対して立腹し一方的な暴行を加えたという自己中心的で理不尽な犯行であり、動機、態様等において酌量すべき点はない。本件犯行により、被害者らが被った肉体的、精神的苦痛には軽視し難いものがあるのに、被告人は現在まで被害者らに対し慰謝の措置を講じておらず、被害者らの被害感情に厳しいものがあるのも肯けるところである。また、被告人は、これまでにも飲酒の上犯した傷害罪により二回罰金刑に処せられていることにかんがみると、粗暴的傾向もうかがわれる。法廷における供述態度からしても、被告人の本件行為に対する自覚、反省は十分とはいえないことからすると、再犯についての危惧もないではない。これらによれば、被告人の刑責を軽視することはできない。
しかし、他方において、本件は飲酒の上の偶発的犯行であること、暴行の程度も強いとまではいえないこと、現在では自己の行為について反省し、今後は酒の飲み方を考え、二度とこのような事態を招かないよう注意する旨申し出ていること、被告人には罰金刑のほかには平成四年に道路交通法違反の罪により懲役三月、三年間刑執行猶予に処せられた前科があるにとどまること、本件以降は被告人なりに自重自戒して生活してきていることがうかがわれることなど、被告人のために酌むことのできる事情が認められる。
そこで、これらの事情を総合考慮した上、被告人を主文の刑に処するとともに、その刑の執行を猶予して、保護観察による指導監督の下で、社会内における更生の機会を与えるのを相当と認め、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官小出錞一 裁判官若宮利信 裁判官古川龍一)